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死に向かっていく人
私が最初に勤めた病院は、ベッド数が100にも満たないところでした。もう10年も前のことになります。
内科、外科、整形外科、眼科、耳鼻科と何でもありみたいな病院だったのだけれど、一番の特色は血液内科があるということでした。
血液内科とは、白血病、悪性リンパ腫、多発性骨髄腫などを治療するところです。骨髄移植をできる病院ではなかったので、治療というと化学療法(抗癌剤の投与)ということになります。二年目からは末梢血幹細胞移植が出来るようにはなったけれど、私が勤めている間はその治療に成功した人は一人だけでした。
この病院に勤めている間に、ずいぶん血液難病の患者さんを見送ったような気がします。見送ったというより立ち合わせていただいたというか。
意識が無くなった患者さんの家族の方に「いつまで、こういう状態が続くんでしょうか」と言われたことがあります。「こういう状態が続くのであれば、早く楽にしてあげたい」というニュアンスだったと思います。身内でない私が見ていても辛かった。家族の方の辛さというのは、私には想像もできないものだったと思います。
看護者同士の会話で「○○さんの部屋に行くのは辛い」という会話が出たこともあります。もう化学療法も出来なくて、できるのは抗生剤の投与くらいという患者さんでした。それでも治ることを信じている患者さんのところに行くというのは、辛いものです。嘘をついているようなものだから。
でも、その患者さんは分かっていたのかな、と今になって思ったりもします。分かってはいるけれども、希望は捨てたくなかったのかな、とも思います。
夜中にその患者さんが嘔吐したときに、その吐瀉物を私が処理するために持っていこうとしたときに言った言葉。
「持って行ってくれるの?」
当たり前じゃないか、それが私の仕事なんだもの、と思いながら、とても悲しかった。こんなことしか自分には出来ないんだ、と思いました。
最期の時まで、その患者さんは看護者に対して不満や不安をぶつけることは無かったように思います。本当は看護者としては、気持ちをぶつけて欲しいんですけどね。何でだろうと今でも不思議に思います。
別に死に向かっていく患者さんを美化するつもりは無いのだけれど、何だか「死」というものを前にして、そういう姿勢でいられる人もいるのだな、と。
そういう人の前では、とても自分というものは小さく思える。
自分はきっと、そういう風には出来ないだろうなと思います。
今日は、あるニュースを読んで、思い出したことを書いてみました。
内科、外科、整形外科、眼科、耳鼻科と何でもありみたいな病院だったのだけれど、一番の特色は血液内科があるということでした。
血液内科とは、白血病、悪性リンパ腫、多発性骨髄腫などを治療するところです。骨髄移植をできる病院ではなかったので、治療というと化学療法(抗癌剤の投与)ということになります。二年目からは末梢血幹細胞移植が出来るようにはなったけれど、私が勤めている間はその治療に成功した人は一人だけでした。
この病院に勤めている間に、ずいぶん血液難病の患者さんを見送ったような気がします。見送ったというより立ち合わせていただいたというか。
意識が無くなった患者さんの家族の方に「いつまで、こういう状態が続くんでしょうか」と言われたことがあります。「こういう状態が続くのであれば、早く楽にしてあげたい」というニュアンスだったと思います。身内でない私が見ていても辛かった。家族の方の辛さというのは、私には想像もできないものだったと思います。
看護者同士の会話で「○○さんの部屋に行くのは辛い」という会話が出たこともあります。もう化学療法も出来なくて、できるのは抗生剤の投与くらいという患者さんでした。それでも治ることを信じている患者さんのところに行くというのは、辛いものです。嘘をついているようなものだから。
でも、その患者さんは分かっていたのかな、と今になって思ったりもします。分かってはいるけれども、希望は捨てたくなかったのかな、とも思います。
夜中にその患者さんが嘔吐したときに、その吐瀉物を私が処理するために持っていこうとしたときに言った言葉。
「持って行ってくれるの?」
当たり前じゃないか、それが私の仕事なんだもの、と思いながら、とても悲しかった。こんなことしか自分には出来ないんだ、と思いました。
最期の時まで、その患者さんは看護者に対して不満や不安をぶつけることは無かったように思います。本当は看護者としては、気持ちをぶつけて欲しいんですけどね。何でだろうと今でも不思議に思います。
別に死に向かっていく患者さんを美化するつもりは無いのだけれど、何だか「死」というものを前にして、そういう姿勢でいられる人もいるのだな、と。
そういう人の前では、とても自分というものは小さく思える。
自分はきっと、そういう風には出来ないだろうなと思います。
今日は、あるニュースを読んで、思い出したことを書いてみました。

感情をぶつけるという信頼とは別レイヤーの信頼だと思います。
どちらかというと感謝ですかね
病気と真っ向勝負している方々の場合
そういった感情よりも治したい!早く元の生活に戻りたい!生きたい!という気持ちのほうが強く、愚痴等の不満は表に出にくいですよね。
治したいという気持ち等は前を向いて進んでいるし、愚痴や不満はどちらかというと現状や過去を表しますね
だから未来を望んで歩む方々は振り返ることはそんなにしません。
だから不満等の感情ではなく感謝という気持ちのほうが大きいはずなんです。
逆にあきらめた人は不安や不満をぶつけてくると思います。
それだけ治したい!元気になりたい!と、真剣に病気へ立ち向かっていく方が多かったということですね。
自分自身が何もできなく、自分の為に何かをしてくれる人がいる。
たとえそれが仕事だとしてもです。
それだけで感謝に値するもんですよね
私の場合は、どちらかというと
自ら命を絶とうとしている人たちを相手にしているので
ちょっと質は違いますけど、何人も亡くなっています。
救ってあげられなかった自分自身に対しての無力感もありますし
なんともいえないわけですが。
信頼関係を築き、なんでも相談してくれるようになったと思っていても
何も言わずに飛び降りてしまった方や
じゃ〜次は来週の火曜日ね♪と楽しそうに帰っていって、次の日にカットしてしまった方も沢山居ますし、正直なところ、信頼関係ってどういうものか私自身いまだにわかっていない部分もあります。
私たちの仕事は、いかにサポートしてあげることができるかです。
身体的な病気・精神的な病気と立ち向かうのは、私たちではなく患者さん自身だから、患者さん自身がどれだけ真剣に病気と闘うことができるか?苦しいときには私たちがフォローしてあげたりして、病気と闘う人たちの応援ができるかという事であると思っています。
私もとあるニュースみて、ショックでした。
> こんなことしか自分には出来ないんだ、と思いました。
そんな小さな事が患者さんには大きな感謝になるんです。
それが治療につながるというわけではなく、精神介護の一環なんですよ。
…わー、長く書きすぎた。何がいいたいのかわからな〜い。